絶景「瀟湘八景」になぞられた「金沢八景」

まずは「小泉」と「金沢八景」のおさらいをしましょう。京浜急行の金沢八景駅のホームにも看板がある「金沢八景」は、「小泉夜雨(こずみ の やう)、称名晩鐘(しょうみょう の ばんしょう) 、乙艫帰帆(おっとも の きはん)、洲崎晴嵐(すさき の せいらん)、瀬戸秋月(せと の しゅうげつ)、平潟落雁(ひらがた の らくがん)、 野島夕照(のじま の せきしょう)、内川暮雪(うちかわ の ぼせつ)」のこの地域にあった八つの風光明媚な景色です。中国の山水画「瀟湘八景」の影響を受けて描かれたもので、日本では同様の例として近江八景も有名です。金沢八景の一つ「小泉夜雨」は、緑深い木々へそっと降りそそぐ雨のもと、笠を手に旅人が行くわびさび深い情景が詠われた景色でした。

美しい金沢八景の八つの景色は日本の歴史とともに大きく変わり、「小泉夜雨」が詠われた一帯は明治以降、軍事施設の一つとなり、軍事施設で働く人々の住宅が並びました。わびさび深い風景は時代とともに変わっていったのです。

歴史とともに姿を変える「小泉夜雨」の地

軍事施設としてつくられた住宅一帯は戦後、復興住宅として一般の家庭へ供給され、一帯は「小泉住宅」と呼ばれるようになりました。当時は区画ごとの共同水道を使う生活で、現在の便利な暮らしとは大きく異なりました。「物がない時代だからこそ、みんなで助け合って暮らしていたんですよ」と芳範さんは当時を振り返ります。

三世代目の小泉住宅の暮らし

平野さんご一家が小泉住宅で暮らし始めたのは戦後間もないころで、日本が復興をめざす混乱の時代と物資不足の時代。芳範さんのお父様、栄蔵さんは釜利谷の宿(しゅく)という地域にあった本家から分家をして、小泉住宅にやってきました。戦後の混乱の時代のなか栄蔵さんは社会を復興させようと、近所のみなさんや仲間と協力して地域に貢献し、銭湯をつくったり、「生活協同組合」を発足したり、日用品や生鮮食品を扱う小さな商店街のような「釜利谷日用品市場」などもつくりました。夏のお祭りや盆踊りも栄蔵さんや近所のみなさんがつくった行事で、戦争の慰霊を込めて歴史を継いでいきました。

昭和の小泉住宅を支えた「釜利谷日用品市場」

「八景市場」の場所は40年ほど前までこの場所にあった「釜利谷日用品市場」と同じ場所です。近所の住民の日用品を並べる小さな商店街のような場で、銭湯や近隣の会社の印刷物を請け負う印刷所もあり、賑やかな場でした。

しかし時代とともに街の賑わいは駅周辺へ移り、1987年に「釜利谷日用品市場」はその役目を閉じ、アパートが建てられました。

バブル時代をむかえると小泉の地域は不動産価格が高騰し、「駅チカ!平坦!商業施設や学校も近接!」という利便性の高さがうたわれるようになりました。利便性が高いことは良いことなのですが、「住まう」価値は利便性だけで評価するものなのか、と健太郎さんは考えています。

健太郎さんは、これまでさまざまな地域で暮らし、旅をし、多くの地域を見るなかで現在の住宅の不動産市場と「住まう」ことへの理想の差異を考えるようになったと言います。

八景市場の計画に対する反対は多々。しかし、健太郎さんは「このままでは小泉の地域も変わってしまう」と危惧し、多くの仲間や専門家の考えに触れながら、より良い住まいを模索しました。そのなかで出会ったのが「愛ある賃貸」[1]という言葉です。「この言葉に大きなヒントを得た」と健太郎さんは語ります。この地で営んできた先人たちのように、地域のみんなで集い、日々を心豊かに暮らしたい、と考えたのでした。

何年にも渡り、構想と悩みを繰り返しました。この地にあった釜利谷日用品市場のように仕事を営んだり、みんなが集える場であったり、そのような暮らしの場はこの時代にどのようにつくられるのか。理想と現実を見定めながら、計画が進み始めました。

地域をつなぐ

「地域とつなぐ」という構想を実現すべく、シェアラウンジの親柱には小田原産の木材が使われています。なんと健太郎さん自ら小田原の山へ出向き、親柱を選び、その木を2015年に切り出しました。その大きな木材の乾燥を待つように、計画が丁寧に進められ、2018年冬に八景市場はようやく完成し、翌2019年春に入居が始まりました。「こずみのほとり」と名付けられたシェアラウンジは、講座やランチ会、マルシェなどが開催され、賑やかな場となりました。そしてそのマルシェをきっかけに、八景市場で設計事務所を営む関東学院大学の酒谷粋将先生や研究室の学生と平野さん親子が所有する空き家の改修と活用の事業も始まったのです。

学生が暮らしはじめた小泉住宅

小泉の街で生まれ、育ち、長く商いもされてこられた平野芳範さん。戦後、栄蔵さんが手がけてきた地域への貢献を息子さんの健太郎さんと引き継ぎ、そして今は、学生たちが小泉で学び、暮らす場を新たに運営されています。先人たちの務めを引き継ぎ、若い世代へ伝え、さらに小泉から若者を巣立たせ社会へ羽ばたかせる立場となった今、「こずみのANNEX」で活動を広げる学生たちを大家さんとしてどのように見守っていらっしゃるのか、思いをお伺いしました。そう、小泉住宅は、金沢八景にある横浜市立大学や関東学院大学の学生が多く住む学生街でもあるのです。

「学生生活を小泉の街ですごしてくれるのは、とても有難いことですよね。元気に挨拶をしてくれたり、大きな家具を運ぶのも手伝ってくれたりすることもあるんですよ。頼もしい存在です。学生のみなさんは、どんどんたくましく大人になっていきます」。元気に挨拶する若者は街を明るくしてくれます。若者がこの地域で活躍する姿に近隣の住民も感化され、街が活性していくようにも感じたそうです。

芳範さんは平成31年1月から「こずみのほとり新聞」という小さな新聞をつくり、釜利谷の情報や季節、歴史などの記事をホームページなどで配信しています。また芳範さん自ら印刷し、釜利谷東一丁目の各住戸のポストへ届けています。

「今は価値観が多様で、簡単に何かが売れたりするような時代ではないので、商いをしていくことは難しい時代です。アパート経営も簡単ではないですし、新しいことを始めるのはとても大変だと思います。でもここ小泉の住民たちは、ここで近所のみなさんと協力しあって、戦後の時代も色々なことをがんばってきました。戦争の鎮魂をこめてお祭りをしたり、盆踊りをしたり。映画の上映もしたんですよ。おやじたちが、がんばってきたということをこれからも大事に希望の糧にしていきたいですし、おやじたちがみんなに楽しんでもらっていたように、私たちも今、みなさんにこの場を利用してもらって、楽しんでほしいと思っています」

この街でがんばってきた先人がいること、楽しかったあの盆踊りは日本が経験した戦争の鎮魂を継承するため意があったこと、助け合って生きてきた歴史の伝えは私たちへこの街の価値を教えてくれます。栄蔵さん、芳範さん、健太郎さんの三代にわたって小泉の街へ貢献される平野さん親子は、今も金沢区の大事な思いの糧をひろげてくださっています。

平野芳範さんが発行する「小泉のほとり新聞」第14号 令和5年3月27日発行
左 平野芳範さん 右 平野健太郎さん

写真・文=中川ちあき


[1] ※引用:リクル ート住宅総研オリジナル調査 解説編(NYC, London, Paris & TOKYO 賃貸住宅生活実態調査)島原万丈(リクルート住宅総研 主任研究員)より「[論考]アカルイチンタイ」3 -3:愛ある家賃石神夏希(COLUMBA 文筆家)より

この記事について

この記事は、取材の仕方や文章の書き方、写真撮影のコツを学ぶ「金沢区の魅力発見・発信講座」の受講者が、区民目線で実際に取材・執筆したものです。